与謝蕪村の有名な俳句15句
与謝蕪村は、江戸時代の中ごろの俳人です。
画家でもあり、目に浮かぶような景色を詠んだ句がよく知られています。
有名な句を季節ごとに、季語と意味を添えて紹介します。

有名な句と季語
春の俳句
菜の花や月は東に日は西に
『蕪村句集』より
季語:菜の花(春)
あたり一面に菜の花が咲いている。
月は東の空にのぼり、日は西に沈もうとしている。
句の前に添えた短い文を前書といい、この句の前書は「春景」(春の景色)です。
句に月が出てきますが、季語は菜の花で、春の句です。
春の海終日のたりのたり哉
『蕪村句集』より
季語:春の海(春)
春の海は、朝から晩まで、ゆったりとうねっている。
「終日」は、一日じゅうということです。
「ひねもす」と仮名で書かれることも多い句です。
遅き日のつもりて遠きむかしかな
『蕪村句集』より
季語:遅き日(春)
暮れるのが遅い春の日を、いくつも重ねてきて、遠い昔のことになってしまったなあ。
「遅き日」は、春になって日が長くなり、夕方がなかなか来ないことをいいます。
「懐旧」という前書が付いていて、昔をなつかしむ気持ちで詠んだ句だと分かります。
春雨やものがたりゆく簑と傘
『蕪村句集』より
季語:春雨(春)
春雨のなか、話をしながら歩いていく。
簑を着た人と、傘をさした人だ。
簑は、わらや、かやを編んだ雨具で、体の上からまとって雨をしのぎます。
夏の俳句
夏河を越すうれしさよ手に草履
『蕪村句集』より
季語:夏河(夏)
夏の川を歩いて渡るのは、なんとうれしいことか。
手には脱いだ草履を持っている。
「丹波の加悦といふ所にて」(丹波の加悦という所で)と前書があります。
加悦は、今の京都府与謝野町の一地区です。
さみだれや大河を前に家二軒
『蕪村句集』より
季語:さみだれ(夏)
降り続くさみだれで水かさを増した大きな川。
その前に、家が二軒だけ建っている。
さみだれは「五月雨」と書き、昔の暦の5月ごろに降り続く雨で、今でいう梅雨のことです。
愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら
『蕪村句集』より
季語:花いばら(夏)
もの悲しい思いを抱えながら岡に登ると、茨の花が咲いていた。
「愁ひつゝ」は「うれいつつ」と読み、心に悲しみを抱きながら、ということです。
花いばらは、茨(野ばら)に咲いた花のことです。
ほとゝぎす平安城を筋違に
『蕪村句集』より
季語:ほととぎす(夏)
ほととぎすが、京の町の上を斜めに横切って飛んでいった。
平安城は平安京のことで、京都の町を指しています。
「筋違に」は、斜めに、ということです。
牡丹散て打かさなりぬ二三片
『蕪村句集』より
季語:牡丹(夏)
牡丹の花が散って、二、三枚の花びらが重なり合っている。
「打かさなりぬ」は、重なった、ということで、「二三片」は二、三枚の花びらのことです。
秋の俳句
月天心貧しき町を通りけり
『蕪村句集』より
季語:月(秋)
月が空の真ん中にかかっている。
その光の下、貧しい人たちの住む町を通っていった。
「天心」は、空の真ん中のことです。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
『蕪村句集』より
季語:野分(秋)
野分の吹き荒れるなか、馬に乗った五、六人が、鳥羽殿へ急いでいく。
鳥羽殿は、京都の南の鳥羽に1086年から造られた離宮(天皇や上皇が、ふだんの住まいのほかに持った宮殿)で、白河上皇や鳥羽上皇が住まいとしました。
野分は、野の草を吹き分けて通る風という意味の名で、秋の嵐をいいます。
朝がほや一輪深き渕のいろ
『蕪村句集』より
季語:朝顔(秋)
朝顔が一輪、深い淵のような色で咲いている。
前書は「澗水湛如レ藍」で、谷川の水が、藍のように深い色をたたえている、ということです。
澗水は谷川の水、「レ」は漢文を下から返って読む印です。
句の「渕のいろ」は、「淵の色」と書かれることもあります。
山は暮て野は黄昏の薄哉
『蕪村句集』より
季語:薄(秋)
山のほうはもう日が暮れ、野原はまだ夕暮れの薄明かりのなかにあって、すすきが見えている。
黄昏は、夕方の薄暗いころのことです。
冬の俳句
寒月や門なき寺の天高し
『蕪村句集』より
季語:寒月(冬)
冬の月が冷たくさえている。
門のない寺の上に、空が高く広がっている。
寒月は、冬の夜空にさえざえと見える月をいいます。
前書は「感偶」で、心にふと浮かんだことを詠んだ、というほどの意味です。
「天高し」は秋の季語ですが、この句は『蕪村句集』で冬の句として並べられていて、季語は寒月です。
与謝蕪村はどんな人か
蕪村は1716年、摂津の毛馬村に生まれたといわれます。
今の大阪市都島区で、淀川のそばです。
もとの名字は谷口で、のちに与謝を名のりました。
「与謝野蕪村」と書かれることがありますが、名字は「与謝」です。
若いころに江戸へ出た蕪村が、俳諧の師としたのが早野巴人です。
俳諧は、何人かで句を付け合ってつないでいく文芸で、今の俳句のもとになったものです。
1742年に巴人が亡くなると、蕪村は江戸を離れます。
下総の結城(今の茨城県結城市)の知り合いを頼り、それから10年ほど、関東や東北を旅して暮らしました。
「蕪村」という名を初めて使ったのは、この旅の時期の1744年です。
1751年に京都へ移ってからは、絵の仕事に力を注ぎました。
丹後の宮津(今の京都府宮津市)に3年あまり住んで絵の腕をみがき、京都に戻ってから与謝の名字を使うようになります。
結婚して、娘が1人生まれました。
蕪村は、俳人であると同時に画家でもありました。
文人画は、もとは中国で、学問を積んだ人が本業のかたわら描いた絵です。
蕪村は、この流れの絵を日本で完成させた一人とされ、同じ画家の池大雅と2人で描き分けた『十便十宜図』(1771年)は国宝になっています。
句についても、絵のような句だといわれます。
1770年、蕪村は巴人の号だった「夜半亭」を受け継ぎ、京都の俳人たちをまとめる立場になります。
芭蕉の句の作り方に立ち返ろうと、弟子の几董たちと句集を出し、京都の金福寺には芭蕉ゆかりの庵を建て直しています。
蕪村が京都で亡くなったのは天明3年12月25日で、数え年で68歳でした。
数え年では、生まれたときを1歳と数え、正月が来るごとに1つ年をとります。
この日付は昔の暦によるものです。
没年は、資料によって1783年とも1784年とも書かれています。
墓は金福寺にあり、蕪村の命日は「蕪村忌」として冬の季語になっています。
このページの15句が入っている『蕪村句集』は、蕪村が亡くなったあと、1784年に几董の手で本になりました。
明治になって俳句を新しくしようとした正岡子規も、蕪村から大きな影響を受けたとされます。