小林一茶の有名な俳句20句

小林一茶こばやしいっさは、江戸時代の後期の俳人です。
子どもや雀、蛙のような身近なものを、話し言葉そのままの調子で詠んだ句がよく知られています。
有名な句を季節ごとに、季語と意味を添えて紹介します。

有名な句と季語

新年の俳句

  • 目出度めでたさもちう位くらい也おらが春

    『おらが春』より

季語:春(新年)

めでたさも、まあ中くらいといったところだ、わたしの春は。
「ちう位くらい」は「中位ちゅうくらい」で、ほどほどということ、「おらが」は「わたしの」ということです。
ここでいう春は、新年のことです。
前書まえがきには、風が吹けば飛ぶような粗末な家なので、門松も立てず、すす払いもせずに、今年の春を迎えた、という意味のことが書かれています。
前書まえがきは、句の前に添えた短い文のことです。

  • 元日や上々吉じょうじょうきちの浅黄空あさぎぞら

    『一茶発句集』より

季語:元日(新年)

元日の空が浅黄あさぎ色に晴れて、縁起のいいことこの上ない。
「上々吉じょうじょうきち」は、吉のなかでもいちばん上ということ、「浅黄あさぎ」は、うすい藍色あいいろに少し緑を帯びた色です。
一茶が亡くなって2年後に、門人たちが句を選んで出した『一茶発句集』に載っている句です。

春の俳句

  • 雀の子そこのけそこのけ御馬おうまが通る

    『八番日記』より

季語:雀の子(春)

雀の子よ、そこをどけ、どけ。
お馬が通るぞ。
雀の子は、春にかえる雀のひなのことです。

  • われと来きて遊べや親のない雀

    『おらが春』より

季語:雀の子(春)

わたしのところへ来て、いっしょに遊ぼうよ、親のいない雀よ。
『おらが春』では、この句に「六歳彌太郎やたろう」と名が添えられています。
弥太郎やたろうは一茶の子どものころの名で、6歳の自分が詠んだ句としているのです。
一茶は3歳で母を亡くしています。
「我と来て遊べや」と書かれることもあります。
句の雀は親のいない子雀なので、季語は「雀の子」で、春の季語です。

  • 雪とけて村一ぱいの子ども哉かな

    『七番日記』より

季語:雪解(春)

雪がとけて、村じゅうが子どもでいっぱいだ。
雪の季節が終わり、外で遊ぶ子どもたちが村にあふれているようすです。
季語は「雪解ゆきどけ」で、雪という字がありますが春の季語です。

  • 痩蛙やせがえるまけるな一茶是これに有あり

    『七番日記』より

季語:痩蛙(春)

やせた蛙よ、負けるな。
一茶がここについているぞ。
「蛙たゝかひ見にまかる、四月廿日はつか也なりけり。」(蛙の戦いを見に行く。四月二十日のことだった)という前書まえがきがあります。
春になると、蛙は交尾の相手を求めて群がり、もみ合います。
一茶はそれを「たゝかひ」と呼び、見物に出かけたのです。
「ゝ」は前の字をくり返す印です。

  • 春風や牛に引ひかれて善光寺ぜんこうじ

    『我春集』より

季語:春風(春)

春風の吹くなか、牛に引かれて善光寺ぜんこうじへ。
善光寺ぜんこうじは長野市にあり、「牛に引かれて善光寺ぜんこうじ参り」ということわざにも出てきます。

  • おらが世やそこらの草も餅もちになる

    『七番日記』より

季語:草餅(春)

わたしの暮らすこの世では、そこらに生えている草までが餅になる。
草餅は、よもぎを入れてついた餅で、春の季語です。

  • 梅がゝやどなたが来ても欠茶碗かけじゃわん

    『文化句帖』より

季語:梅(春)

梅の香りがただよっている。
どなたがいらしても、お出しするのは欠けた茶わんだ。
「梅がゝ」は「梅が香か」で、梅の花の香りのことです。

夏の俳句

  • かたつぶりそろそろ登のぼれ富士ふじの山

    『一茶発句集』より

季語:かたつぶり(夏)

かたつむりよ、そろりそろりと登れ、富士の山を。
「かたつぶり」は、かたつむりの古い言い方です。
「元日や」の句と同じく、『一茶発句集』に載っている句です。
初めを「蝸牛かたつむり」と漢字で書いたものもあります。

  • やれ打うつな蠅はえが手をすり足をする

    『八番日記』より

季語:蠅(夏)

これ、打つな。
蠅はえが手をすり、足をすっているではないか。
「やれ」は呼びかけの言葉です。
前足をこすり合わせる蠅はえのしぐさが、手を合わせて拝んでいるようにも見えます。

  • 大の字に寝ねて涼しさよ淋さみしさよ

    『七番日記』より

季語:涼し(夏)

大の字になって寝ころぶと、涼しいなあ。
そして、さびしいなあ。
体をのびのびと広げた涼しさと、ひとりでいるさびしさを並べています。

  • 大螢おおぼたるゆらりゆらりと通りけり

    『おらが春』より

季語:大螢(夏)

大きな蛍ほたるが、ゆらりゆらりと飛んでいった。
大螢おおぼたるは、源氏蛍げんじぼたるの別の名です。

秋の俳句

  • 名月を取とってくれろと泣く子かな

    『おらが春』より

季語:名月(秋)

あのお月さまを取ってくれと、泣く子どもだなあ。
「取てくれろ」は「取ってくれ」ということです。
名月は、昔の暦の8月15日の夜の月のことです。
一茶の句日記『七番日記』には、「あの月を」で始まる形で書かれています。

  • 露の世は露の世ながらさりながら

    『おらが春』より

季語:露(秋)

この世は露のようにはかない世だ。
それは分かっている。
分かってはいるけれど、それでも。
『おらが春』で、幼い娘を病気で亡くしたことを書いた文の終わりに置かれた句です。

  • うつくしやせうじの穴の天川あまのがわ

    『七番日記』より

季語:天の川(秋)

美しいなあ。
障子しょうじの穴から見える天の川は。
「せうじ」は障子しょうじのことです。
「天川」は「あまのがわ」と読みます。

  • 秋風やむしりたがりし赤い花

    『おらが春』より

季語:秋風(秋)

秋風の吹くなか、あの子がむしり取りたがっていた赤い花が咲いている。
「さと女じょ卅五日さんじゅうごにち墓」という前書まえがきがあります。
さとは一茶の長女で、この句と同じ1819年に、幼くして亡くなりました。
三十五日さんじゅうごにちは、人が亡くなってから35日目のことで、その日の墓参りで詠んだ句です。

冬の俳句

  • 是これがまあつひの栖すみかか雪五尺

    『七番日記』より

季語:雪(冬)

これがまあ、わたしが最後に住む所なのか。
雪が五尺も積もっている。
「つひの栖すみか」は、生涯の終わりまで住む所のことです。
「廿四にじゅうよっか晴、柏原かしわばらニ入。」(二十四日、晴れ。柏原かしわばらに入る)という前書まえがきがあり、ふるさとの柏原かしわばらに着いたときの句です。
五尺ごしゃくは昔の長さで、およそ1.5メートルです。

  • むまさうな雪がふうはりふはり哉かな

    『七番日記』より

季語:雪(冬)

おいしそうな雪が、ふうわりふわりと降ってくる。
「むまさうな」は「うまそうな」のことです。

  • 大根引だいこひき大根だいこで道を教へけり

    『七番日記』より

季語:大根引(冬)

大根を抜いていた人が、抜いたばかりの大根で道を教えてくれた。
季語の「大根引だいこひき」は冬の大根の取り入れのことで、この句では、大根を抜いている人を指しています。

小林一茶はどんな人か

一茶は1763年、信濃しなの(今の長野県)の柏原かしわばらに生まれました。
北国ほっこく街道の宿場町で、今の長野県信濃町にあたります。
子どものころの名は弥太郎やたろうです。
十代の半ばには江戸へ出て、奉公ほうこうをしていました。
奉公は、よその家に住みこんで働くことです。
家を離れたわけとしては、3歳で生みの母を亡くし、父が迎えた二人目の母とうまくいかなかったことが挙げられています。

俳諧はいかいの道に入ったのも江戸で、葛飾かつしか派の二六庵竹阿にろくあんちくあを師としました。
1792年からは6年ほどかけて、京都・大阪から四国、九州までをめぐり、各地の俳人と交わりながら句の修業をしています。

父が亡くなった1801年、一茶はちょうどふるさとに帰っていて、その最期の日々を『父の終焉しゅうえん日記』に書き残しました。
父の残した財産をどう分けるかで、一茶と、二人目の母やその子である弟との話し合いはもつれます。
まとまったのは1813年で、一茶はこのころから柏原に腰を据えました。

一茶が初めて妻をもったのは、52歳のときです。
妻のきくとのあいだに生まれた子どもは、1人も大人になれませんでした。
長女のさとを亡くしたのは1819年で、この年の暮らしを句と文で書いた『おらが春』は、さとの死が中心になっています。
1823年には、きくも亡くなりました。
一茶はそのあと2度、妻を迎えています。

一茶が亡くなったのは文政10年11月19日で、数え年で65歳でした。
数え年では、生まれたときを1歳と数え、正月が来るごとに1つ年をとります。
この日付は昔の暦によるものです。
没年は、資料によって1827年とも1828年とも書かれています。
最後の住まいは、焼け残った土蔵どぞう(壁を土で厚く塗った蔵)でした。
1827年の大火で、柏原の家をなくしていたためです。
命日を表す「一茶忌」は冬の季語です。

一茶は、句日記をたくさん残しました。
句日記は、日々に詠んだ句を日記のように書きつけたもので、『七番日記』もその一つです。
今に伝わる一茶の句は、2万句近くにのぼります。
『おらが春』が本になって出たのは、一茶の死から25年たった1852年のことです。